リリウオカラニ生誕170周年


今日、9月2日はハワイ王朝最後の女王、リリウオカラニ(Lili‘uokalani)の誕生日。
彼女は1838年9月2日生まれなので、生誕170年の記念日です。
youtubeにリリウオカラニ女王が愛した賛美歌、「Kanaka Waiwai」が流れる女王の映像集のクリップがあったのでリンクします。

最近読んでいる本にリリウオカラニについてのいくつかのエピソードが書かれていたので、その他あちこちの本から拾った話と共に紹介します。


リリウオカラニは、1838年カメハメハ三世の時代、共に高いランクの王族だった、母アナレア・ケオホカロレ、父カルアイク・カパアケアのもとに生まれ、生後すぐにハワイの伝統的なハーナイ(養子)の習慣に基づいて、アブナー・パーキーとローラ・コニアに引き取られ、リディア・パーキー(Lydia Liliu-loloku-walania-kamakaʻeha Paki)として育てられます。パーキー一家にはすでに実子がいて、それは後にビショップミュージアムやカメハメハスクールを作ったことで知られるバーニス・パウアヒ・ビショップでした。


リディア(リリウオカラニ)は、アメリカ人、ジョン・ドミニスと結婚しますが、ジョンの父は船長で1837年、リディアの生まれた前の年に妻メリーと5歳のジョンを連れてホノルルに引っ越しています。1846年、ドミニス船長は建築中の新居で使う家具を手に入れようと中国への航海に旅立つのですが、遭難し、二度と戻ってくることはありませんでした。しかし、父を失った一家は1847年、完成した新しい家に移り、開いている部屋を下宿として貸し出し生計をたてます。この時の下宿人の一人が、アメリカ初代大統領の名前をとって、「ワシントンプレイス」と名づけたといわれています。


成長したジョン・ドミニスは、政治経済の世界でめきめきと手腕をあらわすようになり、ハワイ王朝とも深いつながりを持つようになります。1862年にジョンとリディアは2年の婚約期間を経て結婚し、ワシントンプレイスで母メリーと同居を開始するのですが、母は一人息子のジョンを溺愛、またハワイアンのリディアに人種差別的感情を持っていたため、結婚当初からリディアはのけ者扱いをされ、あまり良い関係ではなかったようです。ジョンはすでに経済界で成功をおさめ、結婚の2年後にはオアフ知事に抜擢されたのですが、リディアは当時多くいた王族の一人にしか過ぎませんでした。しかし、1877年に実の兄であるデーヴィッド・カラーカウア(Kalākaua)がリディアを後継者に指名し(この時に正式な王族名をリリウオカラニと改名)、リディアの肩にも重い責任がのしかかってきます。


その後の話はよく知られている通り。1891年にカラーカウア王が療養先のサンフランシスコで客死し(同じ年に夫のジョンも病死)、リリウオカラニが王位を継承し、女王となるのですが、すでに衰退していたハワイ王朝を救うことはできず、クーデターで失脚。1898年にはアメリカの準州となります。この間、リリウオカラニはハワイ王朝の再生をたくらんだとして、1895年にイオラニ宮殿の2階、海側にある寝室に10ヶ月幽閉され、クイーンズキルトとして知られる有名なクレージーキルトを失意の日々の中で作ります。


その後リリウオカラニはワシントンプレイスの自宅に移り、そこで1917年、79歳で亡くなるまでの余生を過ごしました。リリウオカラニとジョン・ドミニスの間には実子はいませんでしたが、リリウオカラニの召使だった女性とジョンとの間に生まれた息子(1910年、27歳の時に正式に養子)がおり、晩年はこのジョン・ドミニス・アイモク一家と共に静かな生活を送り、孫たちとワシントンプレイスの自室でかくれんぼをすることもあったそうです。


ハワイの他の王族たち同様、リリウオカラニは音楽にも優れた才能を発揮し、特に「Aloha 'oe」は有名です。この曲はよく「衰退しつつあるハワイ王朝への愛と憂いを込めて書いた」と言われていますが、リリウオカラニは生前、「これは裏の意味のない純粋なラブソング」だと語っていました。一説には1877年にオアフの名門エドワード・ボイド一家の農場を訪れた時の思い出にインスピレーションを受けて書いたともいわれています(このボイドは、クムフラでミュージシャンで、OHAのスタッフ、マヌ・ボイドの祖先)


長々と書きましたが、最後にもう1つyoutubeのクリップを。
なんと美空ひばりの歌う、「アロハ・オエ」。


ちょっと昔のハワイが味わえるモノクロの写真と共に美空ひばりの歌声が流れます。ハワイ王朝とはぜんぜん関係ないですが、1950年頃のダイアモンドヘッドの景色などが見れ、またハワイと日本の深い係わり合いを思ったりして、こちらもなかなか感慨深いものがあります。