シカゴでのお葬式


11月は夫の実家である、シカゴに2回行った。
最初の1回は、サンクスギビングのためで、これはずっと
前から決まっていた。
もう1回は、夫が懇意にしている年の離れた従兄弟一家からの
突然の訃報でお葬式に行くことになったのだ。
ある朝6時に電話が鳴った時、またいつものファックス広告
(手当たり次第に広告を送りつける業者がいる)
だろうと思って出たら、なんと従兄弟のたった一人の息子が
亡くなったという知らせだった。まだ20歳だった。

従兄弟の息子という、はたからみれば非常に遠い関係の葬儀
ではあったが、実際には家族同様にして育った間柄なので、
旅行のための長期休暇から帰ってきたばかりだったが、
また休みをとってシカゴに行くことを即決した。

アメリカで結婚式には、もう何度も出たことがあるが
葬儀に出るのは今回がはじめてだった。週末にやるものと
思っていたが、どうやらこちらでは葬儀場などの都合で平日に
やることが多いらしい。月曜日夜になくなり、水曜が葬儀、
そして木曜が埋葬の日に決まったことを知らされた。

シカゴに行くのはもう3度目だったが、こんなに暗い気持ちで
飛行機に乗るのは初めてだった。

従兄弟の妻の家族が葬儀を取り仕切り、水曜の午後3時から
夜までメモリアルホールで葬儀が行われた。
日本では、こういう時黒の礼服を着て、お花代やお線香代として
お香典を持って行き、お焼香などをするのが普通だが、かなり勝手が
違うので驚いた。
まず平日ということもあるが、着ている人で黒を着ている人は
ごく一部だということ。皆普通の服で、ダークな色の服を着ている
人も少数派だ。またお香典の習慣はなく、花やお菓子を持っていく
ことが多いらしい。私たちは、花はもうたくさんいろんな人から
いただいているので、その気持ちがあれば息子が通っていた
学校や団体に寄付をしてほしいといわれたので、会場でその
手続きをとった。

夫の家族、親戚がこれだけ集まったのを見たのは初めてで、
こんな機会ではないと会えないだろう人も多く集まった。
いろんな人に「こちらが○○(夫の名)の妻です」と紹介され
たことで、普段はあまり意識していなかったが、自分が
嫁いだ身であること、シカゴのとある日系人家族の新しい一員である
ことを実感することとなった。

夕方8時を過ぎた頃、セレモニーが始まった。教会などに属していない
家族だったので、葬儀は宗教色のないものとなった。従兄弟の妻の兄が
聖書の一節を読んだ他は、集まった人々が故人の思い出をひとりひとり
語り、故人にまつわる面白いエピソードでは笑い声も聞かれた。
また最後に従兄弟が読んだ追悼文は、息子の子供の頃からの
思い出、そして笑い話などを盛り込んだもので、しめっぽい印象が強い
日本のお葬式とはかなり異なるものとなった。

翌日の午前中、夫の一族のお墓のあるシカゴ郊外の墓地に行き、
埋葬が行われた。最後に従兄弟が、故人が子供の頃好きだった
というカラスの歌を涙ながらに歌って終わりとなった。

ロサンゼルスに戻った後、英語で書かれた追悼文の翻訳を頼まれました。
これは従兄弟の両親のうち、母親はアメリカ育ちの2世なのですが
父親が日本から来た人で、あまり英語が得意ではないためです。
また日本にいる、親戚たちにも送りたいということでした。
この追悼文の翻訳、まさに涙なしにはできない作業でした。
私自身は故人とは、数回会っただけなのですが、子供の頃の
思い出が父親によって、愛情たっぷりに書かれてあり、その場では
聞き取れなかったその内容に何度も泣いてしまいました。
最後の一行は、
「この場に来てくださったことをすべての方々に感謝すると共に、私たち
に与えてくださった素晴らしい励ましに感謝いたします。これからやって
くるであろう、暗い静かな日々において、あなたたちの祈りが私たちには必要なのです」
というものでした。葬儀の場では気丈にふるまっていた従兄弟夫婦です
がその後二人きりになってしまった広い家で、どれだけつらい思いをする
かと思うと、私自身も耐えがたい気持ちになります。

従兄弟夫婦は、この2週間後、毎年恒例のサンクスギビングをこれまで通り彼らの
家で開き、私たちも招待されました。そして先日は、亡くなった息子さんと3人で写った
写真入りのクリスマスカードも届きました。
「つらいけれど、これまで通りの生活を続けよう。泣いてばかりいるより
その方が息子もうれしいに違いない」
そんな決意が彼らにはあるのかもしれません。