12月7日

今日たまたま銀行に行ったら、テレビでちょうど「パールハーバー」の映像が流れ、その場にいた、たった一人Japaneseだった私は、思わず、ハッと見を固くしてしましました。日本では12月8日ですが、アメリカでは12月7日が真珠湾攻撃の日です。


今現在、アメリカに住む者として、この日はどうしても緊張せざるをえない日です。戦後60余年を過ぎた今、日本人だからということで、戦前戦後のようなあからさまな人種差別を受けることはありませんが、戦争勃発時、アメリカに住んでいた日本の血を引く人々が、日本軍の攻撃開始により、運命が激変してしまったことを考えると、1人の日本人として胸がいたみます。


戦争に関する報道は、国によって何に焦点をあてるかに大きな違いがありますので、今回はアメリカに住んでみて、はじめて私が知るようになった、日本ではあまり報道されない、第二次世界大戦(WWⅡ)と日系人について書いてみたいと思います。

                                                                                                                                • -

戦争によって壊された
幸せな日々


戦争がはじまった頃、アメリカには多くの日本人、日系人が住んでいました。
夢を抱いて海外に渡り、並々ならぬ苦労をした後、大多数の人は1940年代頃までには、ある程度の財産を築き、幸せな生活を送っていました。しかし、WWⅡ勃発により、その幸せは一瞬のうちに奪い去られてしまったのです。


アメリカ本土では日系家族は主にカリフォルニア州など西海岸地域に多く住んでいました。当時、カリフォルニアは最も日系人に対して風当たりの強い地域として知られており、また防衛上重要な地域だったこともあって、西海岸に住んでいた日系人は強制的に退去させられ、マンザナー他全米10ヶ所にある収容所に隔離されました(約12万人)。これらの収容所の生活自体は、日本軍が外国人捕虜に対して行った残酷な扱いと比べると、はるかに待遇は良かったということですが、収容所へ移動させられるまでの間が短かったこともあり、家、田畑、その他の資産などを二束三文で処分せねばならず、何十年もかかって汗水たらして築き上げた財産は、水の泡のごとく消え去りました。


一方、ハワイでは、当時の全人口42万3000人の約37%(16万人)を日系人が占めていたということもあり、社会的混乱を懸念して収容所は作られませんでしたが、僧侶、日本語学校の教師、その他の指導者たちが本土に送られました。最初の爆撃がハワイのパールハーバーで行われ、友人や家族を爆撃で失ったという地元の人も多かったということから、日系人たちは非常に肩身の狭い思いをしたそうです(ちなみに被害者の中には日系人もいました)。


戦争がはじまってすぐは、日系人はたとえアメリカ生まれでも一律敵性人とみなされ、忠誠心を証明したくても、軍隊に入ることすら認められなかったのですが、その後、日系人だけの部隊を作ることになった時、ハワイから多くの二世が志願しました。その理由は「アメリカ生まれの自分たちは、見かけは日本人であっても、敵ではなく、1人のアメリカ人である」ということを自らの命をかけて証明するためでした。また中には自分が軍に入隊することで、収容所に連行された親が開放されることを期待した人たちもいました。


千人針を胸に戦った
日系2世たち


日本生まれの親たちは、息子たちの志願を聞き、複雑な心境に陥りましたが、多くの人は「アメリカに恩を受けた者として、立派に大和魂で戦って欲しい」と、泣く泣く息子たちを見送ったそうです。


日系兵士は、日本語ができるかどうかによって大きく2つに分けられ、日本語が堪能なものは捕虜の尋問、伝単(敵国向け宣伝ビラ)書き、投降の呼びかけなどを行うMISに
入り語学兵として、太平洋戦線で日本軍と直接戦いました。またそれ以外のものは、100/442連隊としてヨーロッパ戦線でドイツ兵と戦い、死傷率314%という過酷な戦いにいどみ、アメリカ戦史史上、最も多くの勲章を受けた(最も勇敢で死傷率も最大)部隊となって、日系人の名誉の挽回に寄与しました。アメリカ中西部にあった訓練所では、本土の日系兵(コトンク)とハワイの日系兵(ブッダヘッド)が反目していた時期もあったようですが、後に一緒にウクレレを弾き、ハワイの歌を歌い、同じ日系兵として戦友の絆を深めました。ハワイ出身の兵がホノルルに帰還した際は、ロイヤルハワイアンバンドが港で歓迎の演奏を行い、家族たちはレイで出迎えたそうです。


ロサンゼルスにある日系アメリカ人博物館では、これらの戦争の記録が展示されていますが、その中に日系兵士が身に付けていた、「千本針」があります。これは、86歳の今も現役でボランティアをしている日系2世の方が実際に見につけていた品で、収容所にいた母親が皆に一針づつ縫ってもらい、戦地の息子に送った品だそうです。また博物館横には、日系兵士の名を刻んだゴーフォーブローク記念碑があり、80代、90代の元兵士の方々が歴史を伝えるボランティアをされています。


これらの日系兵が戦場で流した大量の血は決して無駄ではなく、戦後、日系人が社会で活躍するための大きな礎となりました。特にハワイでは戦場で片腕を失い、医師になる夢を断念せざるをえなかったダニエル・イノウエが政治の世界に入り、1959年アメリカ初の日系下院議員に当選、またジョージ・アリヨシが日系初の知事として当選するなど、顕著な影響がありました。


しかし、戦後すぐは、戦地から帰還する際も、アメリカ軍の制服を着ていてさえ、レストランや床屋で入店を断られたり、街中で「JAP」といってつばをはきかけられたりなどの差別が残っており、差別が本当に目に見えてなくなるまでには、公民権運動が起きた1960年代までかかったということです。


忘れてはいけない
戦争の歴史


戦前は、日本生まれの一世の親たちは他のヨーロッパ系移民と異なり、市民権を得ることができず、また土地の所有もできませんでした。これらの差別法は、日系兵士の活躍が引き金となって後に撤廃されました。


戦後、レーガン大統領時代の1988年になって、「当時の強制収容は間違っていた」ということを国が認め、収容所に入っていた人を対象に1人一律2万ドルの補償が支払われましたが、これは当時アメリカに住んでいた人に対してのみで、ペルー他南米諸国から連行された人に対しては、独自に訴えを起こした一部の人をのぞき、正式な補償は行われていません。


アメリカ生まれの日系2世の中には、たまたま日本を訪問していた時に戦争がはじまり、そのままアメリカに帰国できなくなってしまったという人も大勢います。最も有名なのは、「トウキョウ・ローズ」の汚名を着せられた故アイバ・トグリさんで、生活の
ために仕方なくついた仕事が、たまたま欧米向けのプロパガンダ放送だったことで、戦後、反逆罪でアメリカ市民権を剥奪されました。また海外に移住していた日本人の中には、広島出身者が非常に多かったのですが、兄は太平洋戦線でアメリカ兵として戦う一方で、親や弟たちは広島の原爆で亡くなるなどの悲劇も数多くありました。


戦後、65年を経て、戦争を知る世代の人たちはどんどん減っています。
私自身、もっと若い時には戦争や平和について深く考えることはなかったし、戦時中の話や特に元兵士の人の話に、積極的に耳を傾けることはありませんでした。今の日本が平和ならそれでいい、わざわざキナ臭い話を聞かなくても…と思っていました。しかし、アメリカに来て、元日系兵士だった人たち、戦時中収容所に入れられていた人たち、広島で原爆を体験したアメリカ国籍の日系2世と知り合ったり、また沖縄戦を体験した後、アメリカ人と国際結婚して戦争花嫁になった人、特攻隊の生き残りで戦後アメリカに移住した日本人、戦前日本支配下満州・牡丹紅に住んでいた韓国女性など、さまざまな人たちと話す機会があり、自分の無知・無関心さにあきれると共に、もっと「知らなければ」と思うようになりました。


これらの方たちは、今、80代、90代で彼らが生の体験を語ることができる時間は非常に限られています。もしあなたのそばに、戦争を体験されている方がいたとしたら、ぜひ話を聞いてみて下さい。

まだ間に合ううちに…。

                                                                                                                                • -

■参考サイト
伝単についてはこちらで実物を見ることができます。
http://www.geocities.jp/kyo_oomiya/newpage2.html


■日系部隊に関して(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3


日系人の強制収容(WIKI)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC442%E9%80%A3%E9%9A%8A%E6%88%A6%E9%97%98%E5%9B%A3


■おすすめの本
忘れてはイケナイ物語り 野坂 昭如 (編集)
「火垂るの墓」原作者の野坂氏が、一般から公募した戦争をテーマとした体験談をまとめた本。ひとりひとりの生の声が伝わってきます。